■ | 1975年度スマッシング 「大学生活の意義」(当時C4) 鈴木紀宏(C51) |
名工大卓球部後輩諸君のために、私の大学生活について書いてみたいと思う。 昭和47年4月(1972年)、私は名工大土木工学科に入学。長い浪人生活からやっと解放され、胸をはずませて名古屋まで通ったものだった。大学に入学したらあれもやろうこれもやろうと考えてはいたのだけれども、入学当時は大学に慣れないために何もできなかった。そんな時、高校の後輩である夏目君(E51故人)にバッタリ会って話をした。彼は、卓球部に入るというのである。 そんなことがあって、私も何かクラブに入ろうと考えるようになった。特に高校にはないような、馬術、ボート、ヨット、うんサッカーもいいななどと考えてみたのだが、結局決まらずにいたある日、神谷(G51)に会ってしまった。これがそもそも卓球部入部のきっかけとなったのである。 おそるおそる、体育館に顔を出したのは、それからまもなくのことであった。 卓球部の第一印象、それは比べるべきもなく先輩たちが私よりもずっと上手であるなぁということであった。特に米川さんの卓球のスケールの大きさには驚いた。 大学生活に慣れてきたころには、もう卓球のとりこになってしまった。そして、あの夏の栂池での初めての合宿。私と同じように卓球部に入部した今の4年生と初めて同じ釜のメシを食べたのである。その頃から、目標をリーグ戦に出場することにおいて練習にはげんだのである。 入学当時、規定練習はつらかった。高校時代にはほとんどトレーニングをしなかったものだから、なおさらであった。だから自由練習には喜んで出て行った。トレーニングがないから。 そして月日が経ち、2年の後期を迎えた。土木工学科は留年生の多いことで有名である。しかし、運良く留年を免れ、ここで安心したのがいけなかった。その年の春の合宿で、不注意から腰を痛めてしまったのである。3年の春のリーグ戦にも出場できなかったし、おまけに夏には腰が悪化して、悪夢のような夏のリーグ戦(3部に降格)には、ベンチにも入ることができなかった。今考えると、私の大学生活でいちばん残念なことが、この腰を痛めたことであった。いまだに、くやしい。 そして4年生、就職難。なんとかこれもうまく切り抜けることができた。 さて、私にとってこの4年間は何であったのだろう。単なる高校の延長か、それとも就職のための切符を得ることだったのか。そうではない。卓球をやったことであり、よき先輩、よき同輩、よき後輩ができたことである。新しい友ができたことである。 とりとめもない、単なる私の大学4年間のことを書いてしまったが、最後に名工大卓球部が早く2部に復帰することができるように、後輩の奮起を祈ってペンを置くことにする。 |