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1982年 「宿願果たす」(当時D3)  井出正一(D59)

 昭和57年(1982年)8月秋季リーグ戦合宿。リーグ戦合宿も、日に日にリーグ戦が近づいて来るに従って、熱が入り、チーム状況は磐石かに見えました。

 しかし、大きな落とし穴が待っていたのでした。初日は、常葉大に4−0で快勝。二日目の午前は豊橋技術大。これも4−0で快勝。午後は名院大。春に岐阜大と替わって3部に落ちた名院大、実力は互角と見られ、我々は気力充分で望み、4−0で快勝。一つの強敵と見られた名院大を一蹴しての3試合連続4−0だけに、チーム状態は最高かに見られた。そして三日目はいよいよ宿敵愛教大。過去3年間5回の対戦は、1勝4敗。名工大が3部で優勝できなかったのは、このためと言ってよいほどの天敵である。

 かくして熱戦の火蓋は切られた。しかし、この試合で重要なことがありました。4年生丹羽さんは翌日に日立製作所の就職面接を控え、この日東京へ向かわなければなりませんでした。このことで、丹羽さんに試合に出てもらうか否かが問題になり、結局、丹羽さんが「出る」ということで出てもらうことになったのですが、時間の都合上、一番でしか出れませんでした。常識で考えると、一生で一番大事な日の1つになるかもしれない日を翌日に控え、列車に飛び乗る寸前まで試合に出てもらうなどというのは、非常識極まりない事と言えます。これには、この日丹羽さんに出てもらわければならなかった、我々3年生以下の未熟さが問われます。天秤にかけて、卓球を取った丹羽さんの2部昇格の執念には本当に頭が下がる思いです。この日の午前の試合が長引き、まかり間違えば一番丹羽さんは棄権になるかもしれないというようなせっぱつまった時間的余裕のない状況で試合が始まることになったのです。これが1つの落とし穴でした。

 相手は愛教大若きエースの森君。丹羽さんの相手は森君ではなくて、時間でした。実力が100%でるはずがありません。1セットは取ったものの、逆転されて、丹羽さんは東京へ向かったのでした。リクルートカットで試合に出たのは、後にも丹羽さんだけでしょう。この試合が僕にとって、3年間で一番印象の悪いものになってしまいました。

 思わぬ試合展開になり、相手は波に乗ったかにも見えましたが、2番鈴木は気力充分で相手を一蹴。3番加藤の相手はカットマン。この試合はまったく素晴らしいもので、勝った瞬間、僕は思わず涙が出そうになりました。まさに2部に上る階段を登っているような試合だったのです。

 しかし、4番ダブルスでまた1つ落とし穴が待っていたのです。それは相手がダブルスを組替え、ドライブマン・カットマンの変則ペアできたのです。考えてもいなかったペアに敗れて2−2。

 5番は多田ー倉知。結局、この試合がハイライトになるのでした。倉知君はイボ高の攻撃マンでカットマンには自信を持っていて、オーダがぴったし合ったことになり、あまりに丁寧な粘りに、カットマンが粘り負けた形になりました。これが3つ目の落とし穴でした。試合終了後のミーティングでもこれが話題に上り、名工大に欠けているのはこの集中した粘りだという結論になったりしました。6番で吉田が負けて、2−4で負け。またも愛教大に負けてしまったのです。

 この結果、部員全員は、もはや優勝はないと覚悟を決め「今日の負けを良い反省にして、明日の試合は来季へのステップとしよう」というキャプテン鈴木の言葉に集約されていました。しかしたった1人だけ、その可能性を信じていた人がいました。それはリーグ戦中、ずっとベンチコーチの院生広部さんでした。広部さんは「俺は愛教大が名院大にこける気がするんだが」と。この燃える2部昇格の執念が天に通じたのか、そう、大どんでん返しが最終日に起きたのでした。

 四日目最終日午前、名工大の相手は日福大。同じく午前、愛教大-名院大。優勝の可能性があったので(名工大が日福大に勝って、愛教大が名院大に負ける)、試合中も、愛教大の試合が気になったのはしかたがないことでした。我々は4−2で日福大に勝って、ミーティングを終え、試合観戦。このとき、愛教大-名院大は2−2で同点。しかし、まだ優勝のことは誰も信じていませんでした。ところが、オーダを知ってから様相は変わってきました。すなわち6番勝負で名院大勝ちありとわかったからです。6番は実力伯仲の熱戦で、まるで自分たちのチームが試合を行っているかのように、思わず名院大を応援してしまいました。名院大の面子にかけた闘志と名工大の執念の願いが合わさってか、名院大が4−3で逆転。この瞬間、3すくみでの名工大の3部優勝が決定したのでした。

 8月28日から再び3日間の合宿を行い、遂に、31日の入れ替え戦の日を迎えました。相手は、春季リーグ戦最終日、優勝をかけて争い、わずか1シーズンで2部に返り咲いた岐阜大学。

 1番はキャプテン鈴木。両校エース同士の対戦は、セットオールで鈴木が負けたのでした。2番は加藤。しかし2本取られてもう後には引けない名工大。3番は丹羽さん。2−0の会心の勝利を飾り、名工大を蘇らせて、最後まで「名工大に丹羽あり」を示したのでした。実際、ここから名工大の進撃は始まったのでした。この日のクライマックスのダブルスを迎えました。このダブルスの試合は本当に素晴らしいもので、鈴木・吉田コンビが本当にうまくかみ合い、チームリーダとしての主将・副主将の役目を十分に果たしてもまだ余りがあった試合でした。これで2−2のタイになったものの精神的には、既に岐阜大を上回った名工大は、5番で吉田が、まったく寄せ付けずに2−0で完勝。6番は岐大が多田に2−0で勝って、試合は3−3になったのでした。そして、7番はなんと1年生同士の対決になったのです。岐大は1年生は計算していなくて6番までに勝つオーダを組んだのに対し、名工大はそれを読んでいて、7番1年生服部としたので、いわば予想された組み合わせだったとも言えます。われらの服部君は既に実力は学内1.2位であったので少しも心配するところはなく、その実力と冷静な判断で相手を寄せ付けず、最後にはいささか盛り上がらないと言った感じもありましたが、最後の1本を服部が取った時には、まさに感無量。これで3年間の僕の応援の仕事は終わったと思いました。

 試合後、愛知県体育館横の芝生の上で胴上げした感激を二度と忘れないでしょう。広部さん、長岡さんら諸先輩がやり残された宿題を、鈴木主将をはじめとする名工大は果たしたのでした。

 あの感激を忘れずに、今、名工大は新たなる目標に向かって進んでいます。


原文は約1600字、びっしり4ページにも及ぶ大長編です。その長さからも、優勝した喜び、感動が伝わってきます。私は最後の1本を決めた瞬間と広部さんの涙を特に覚えています。このスマッシングを過去から読み返えせば、当時の名工大にはとっては、2部昇格はまさに「宿願」であり、いかにその使命達成が関係者の悲願であったかがわかると思います。