1985年は、卓球部にとっても、本学にとっても様々な意味をもつ年であった。関連深いものを幾つか挙げてみる。
卓球部の長年の悲願であった一部への昇格の実現
本学の念願の大学院博士課程の一部(物質工学、生産システム工学専攻は60年度より、
電気情報工学、社会開発工学専攻は修士課程のみ)設置
名工大創立80周年記念(明治38年名古屋高等工業高校として創立)
学部の改組(14学科から6学科へ 応用化学科、材料工学科、機会工学科、
生産システム工学科、電気情報工学科、社会開発工学科の新学科)
大学の一員としての自分には、大学の様々な出来事が大きな部分を占めているのであるが、しかし、現役卓球部の諸君やOB諸君と同様に、
最も印象的だったのは、何と言っても卓球部の一部昇格である。我が卓球部は、今まで何度かそれに挑戦してきては涙を飲んできた。現役諸君の厳しい練習やOB諸君の暖かい応援により二部優勝、一部昇格を果たしたわけである。その力を示すようにOB会でも久しぶりの現役個人優勝というのは心強い限りである。本学は、今年1985年で創立80周年を迎えた訳だが、卓球部にとってもその年にふさわしい一つの節目となった。卓球部がクラブとして結成されたのはいつのことだろうか(御存じの先輩がおられれば是非おきかせ願いたいものである)。卓球部の歴史も、世の常のごとく、苦しい時期、上がり調子の時期、下降中の時期などの様々な時期を繰り返してきている。今がそのどの時期なのかはいうまでもないが、新しい時代の初めとなってほしいものである。
話は変わるが、前回に続き、又、相撲の話を簡単に書きたいと思う。今年も九州場所を終えて一年を振り返って見れば、千代の富士の強さと、北尾(三重県出身)などの若手力士の台頭と共に、琴風(三重県出身)、鷲羽山、富士桜等の引退も心に残る。スポーツ記事のお好きな方々はすでに御存じかと思うが、琴風は二十歳の時に関脇になるというスピード出世をしたものの、度重なるひざのけがで、幕下三〇枚目にまで転落した。相撲では十両以上が関取として認められ給料も与えられ一人前としてみなされ、彼を世話するための付き人もつくのである。十両以上であるかないかは、天国と地獄ほどの差があるのが相撲の実力の世界なのである。彼は、一時は関脇という三役の座につき、その上の栄光をめざし精進し、周囲もそのことを期待していた。しかし、そうはうまくいかなかったのである。けがにより、彼の言葉によれば「地獄」へ転落したのであった。関取として大勢の人々の注目を集めていた男が、関取に仕えるのもとなってしまったのである。「地獄をみてきた」とは彼自身の言葉である。
しかし、彼はその中からはい上がってきて、優勝2回、大関在位22場所という堂々たる成績を収め、再び栄光の座に戻ってきたのである。そのような琴風も再度のけがには勝てず、夏場所での右足骨折により再起がかなわぬまま引退ということになってしまった。
人間は、一度よい生活を経験してしまうと、それ以下の生活に耐えるのはなかなか容易なことではない。また、そういう状況に置かれた時にそれを乗り切るのは並大抵のことではないであろう。それを、琴風は経験し、又、成し遂げてきたのである。その苦しみは彼を大きく成長させたことであろう。彼は引退をして、新しい人生をスタートしたわけであるがその経験がきっと生かされることであろう。
彼の人生から、みなさんは何を思うであろうか。
1985年もまもなく終わろうとしている。(これを読まれるのは少し時期はずれになると思われるが)身近な出来事や、日航の墜落事故、コロンビアの火山の噴火などの多くの事件や様々な人々の人生を通して、今年も又多くの事を考えさせられ教えられた。色々なことがあった年であったが、今年も暮れようとしている。来年1986年は、一体どの様な年になるのだろうか。