今、(1986年)十二月の末日、今年は本当に忘れることのできない一年であったことをつくづくと思う一時である。
一部昇格の悲願達成なる栄光に感動も醒めやらぬまま、今年五月の春季リーグを迎えたとき、主力選手が抜けた直後であっただけに一部残留への危機感に深刻な雰囲気が漂い始めていたあのころが特に印象的である。私には既に直接どうこうできる実力はないけれど、事あるたびにリーグ一部に所属する対戦予定大学の実力が大いに気になったものである。現有の我工大選手のオーダーなど、小手先の調整が全く思わくどおりに運んだ時でさえ、工大が勝利できるのは極めて限られた状況のもとでしか有り得ないという劣勢的結論をどうしても拭い去ることができず、それだけに難しいことだとは充分に分かっていながら、根拠のない一部残留への期待だけが先行していた時でもあった。
そんなわけだから、大会最終日の翌日、新聞の報道に第四位という予期せぬ好成績を伝える我工大の活躍を見た時、私には瞬間的に多くのことが複雑に入り乱れて思い浮かんでいた。
汗だくの顔、両手を精一杯あげ、小躍りして万歳を繰り返す部員の顔が皆、喜色満面の笑顔に輝いている。力の限りを、そして青春の限りを尽くして、おそらくは辛くもその栄光の座を守り抜いたのであろう。僅か十余名の工大卓球部なるこの弱小チームが本当に難しいことによく耐え抜いたものであると、つくづく思えてならない。簡単には言い尽くせない数々の苦労がこの大きな笑顔と擦れ違い、そこに貴重な教訓を残しながらそれ故にまた、この瞬間には、選手として認めるに相応しい選手が誕生する時でもあるように私には思えるのである。
どの例に限ることなく、真剣な努力、懸命に頑張る姿勢は常に人の心を打ち、感動を呼んできた。
そして又、そこには一方で、それまで常識としていた概念を期せずして覆すべき可能性が実際生まれているのではないだろうか。
陸上短距離の百mで十秒をきることが絶対的な不可能とされていた時代は、まだそれほど遠い昔のことではない。しかし、今これを不可能な事として考える人がいるであろうか。既に、それが九秒九を上回る現状を見るとき、スポーツは常識を破るのであり、不可能を可能にする一面を確かに持つのである。そして、この例に限らず、多くの分野での発展が常に常識を破ることへの挑戦の繰り返しであった過程を思うとき、そこに生まれた可能性のもつ意義は極めて大きいものがあると言わざるを得ない。
こと、スポーツの分野で、選手は常にその可能性をもつ最短距離の位置に存在しているのである。しかしながら、その可能性も単なる可能性の段階で終わってしまうのでは、元も子もないけれど、実際はそのケースが圧倒的に多いということも又、事実のようであり、それだけ常識を覆すことの難しさを語っているようでもある。
今にして思えば、東海学生卓球界での私学二強の概念が固まり始めたのは、当時、私が大学三年生のときに、遠い記憶を辿ることができる。高校卓球界での活躍選手を全国から特待生なる名目のもとに掻き集め、私が選手であったリーグ二部のランクを風のように通り過ぎていったのは紛れもなく、現二強のうちの一強である。これ以後、二強の概念は半ば常識化されたものとして現在も依然続いており、特に四位以降の大学とはチームの総合力に歴然たる差ができているのは周知のとおりである。私にはむしろ、このこと自体、異質のできごとであるかのように思えてならない。
しかしながらここに至っての是非論は、既に全く意味を持つものではない。問題は、こうして作られたチームに対して、僅か一握りの素人集団の寄せ集めとして育った我工大卓球部が、いかにして戦うかということであり、誰が見ても、極めて難しい問題であることだけは確かなようである。
ここに、その焦点が、半年も後の春季リーグの一点に集中されねばならないということは従って、当然の対策と言えよう。
一握りの素人集団とは言え、それ以前に、君達部員はどの一人をとっても誠に優秀なる名工大生である。固い団結のもと、皆で知恵を絞り、勇気を持って本気で頑張れば、今や常識となった東海卓球界の力学系に極めて大きな異変が起こる可能性も残されているのではないだろうか。
前進か、後退か、まさに名工大生の真価を問えるのは、これからのような気がしてならない。
私には、文武両道のもと、力の限りを、そして青春の限りを尽くして頑張れと声を大にして言いたく、拙文を送るものである。
昭和 六十一年 十二月
|